作品紹介

緊縛夜話十七夜 銀河鉄道の夜 -露- の登場人物紹介です。

●宮沢賢治

聖人のように扱われているが、実態は全然そんなことはなく、

法華経に傾倒し人のためになりたいと願いつつも、親のすねをかじって、農業方面ではたいした成果も残すことはできず、

生前出版した「春と修羅」と「注文の多い料理店」は全く売れなかった男。

頭はよく、知識もあり、そのために理想が高かったのだが、その理想に自分自身が追いつくことができず、ずっと鬱屈した気持ちを抱えていた。多量に書いた童話たちは、いずれも、法華経の思想を伝えるために書いていたと言われている。

キリスト教や、他の仏教も否定していたわけではないが、「それらの教えは、救えるものに限界があり、突き詰めていくとどの宗教思想も法華経に行きつくはずだ」と考えていた。(それを彼は「科学と信仰が同じようになる」と呼んだ)


●高瀬露

宮沢賢治のサロンの近くに実家がある、小学校教員。

賢治が教師だったころに、近くの学校で農業に関する授業をしたことがきっかけで知り合った。

高橋慶悟という、一緒に近くの教会に通っていた人が、賢治のサロンに出入りしているというので、

彼の紹介で、サロンに出入りするようになった。


●ジョバンニ

宮沢賢治の書いた童話「銀河鉄道の夜」に登場する少年


●カムパネルラ

宮沢賢治の書いた童話「銀河鉄道の夜」に登場する少年


●ブルカニロ博士

宮沢賢治の書いた童話「銀河鉄道の夜」の第3次稿に登場する、セロのようなやさしい声をした博士。


●カシオペイアの娼婦

ある経緯で絵のモデルとなることになった娼婦。


●カシオペイアの娼婦の弟 -市蔵-

娼婦の弟。血のつながりがあるかは不明である。


●森佐一

岩手出身。学生のときに賢治と出会っている。

中学(当時の中学は、12歳~16歳までであり、今でいうと高校生くらい)のときから文学青年で、

自分で雑誌を作ろうとしていた。その際、知り合った宮沢賢治に、原稿を寄稿してほしいと依頼している。

当時の宮沢賢治は無名であり、この「雑誌の寄稿」というのは、今でいう同人サークル活動のようなもので、

参加費をはらって、みなで作品を発表する雑誌を印刷して配布する、というものだった。

中学卒業後、上京し、東京外語大学でロシア語を学んだのち、「岩手日報」の記者となる。

森佐一は、森荘巳一と名乗り、作家になった。宮沢賢治が死んだあと「岩手日報」で(当時は無名だった宮沢賢治を、半ば強引に)「岩手から生まれた希代の作家」と言う風にブランディングし、強く売り込んだ。彼のそのブランディングにより、「一生を農民と文学に捧げた偉人」「一生童貞だった、穢れぬ精神の作家」といったイメージが強く植え付けられた。


●菊池武雄

小学校の教諭から、中学校の図画の先生になった。賢治と知り合ったのは、中学校の先生をしていたころ。同僚であった藤原嘉藤治の紹介で、賢治に童話集『注文の多い料理店』の装丁と挿絵を依頼される。菊池は辞退したが、賢治から職業画家でない方がよいと励まされ、挿絵はすべて自由に構想して描いたという。(角川文庫版の「注文の多い料理店」の本文では、菊池武雄の書いた挿絵がそのまま利用されています)

大正14年(1925)上京、吉祥寺に家を構える。図画の教師を続けながら深沢省三(盛岡出身、画家、吉祥寺で、隣に住んでいた)、鈴木三重吉(童話童謡誌「赤い鳥」主宰者。当時ほとんど唯一の童話雑誌であり、日本一の童話の権威)らと交友と結び童画を描く。この時期、菊池は賢治の童話を三重吉に見せたが「あんな童話はロシアにでも持っていくんだなあ」と断られている。

昭和6年に賢治が上京したときに、熱を出した賢治は頼る人が東京におらず、菊池を頼っている。


●賢治の母(および父・実家)

賢治の実家は地域で有名な「名家」であり「金持ち」であった。かつ、結核が出やすい家だ、とも言われていた。

実家は浄土真宗を信じており、二十代半ばで法華経を信じるようになった賢治(および、妹トシ)とは対立していた

古物商をしており、賢治はその家業を嫌っていたが、その家業で稼いだ金で育ててもらい、遊ばせてもらっている、という自覚もあり、その間で悩んでいたようだ。名家であるがゆえに、「家業を継げ」「嫁を取れ」といった圧迫は強かったようだ。

当時はそれが当たり前でもあり、男は嫁を取って家を継いで子を作って稼ぎ育てるという「役目」を負うべき、とされていた。

宮沢家では、父母ともにその役目を忠実に果たし、賢治を含む多くの子を育てた。結局、家は弟の清六が継いだ。


●伊藤ちゑ

「二葉保育園」という、貧民のための保育園で保母として働いていた女性。

兄の看病のために一時職場を離れたが、その後復帰している(昭和6年時点では、この保育園で働いている)

この保育園は非常に先進的な保育園で、貧民の子供のための教育が一切なかった時代に、教育や、安全な保育を行うべく設立されたもので、ちゑは、貧しい人の子供たちと現場で接していた。

日々現場で働いていた経験のあるちゑから見れば、親にお金を出してもらって、親の土地で農民の真似事をしている賢治の活動はボンボンの遊びのように見えていたと思われる。

なお、菊池武雄の友人となった「深沢省三」(吉祥寺で、菊池武雄の隣の家に住んでいた)の妻である「深沢紅子」とは女学校時代の先輩後輩の関係であり、伊藤ちゑは深沢紅子に「へっぽこ詩人(賢治)と見合いをしたことがあるのよ」と嘲笑まじりで雑談をしたことがあるという。

あらすじ

(昭和2年の物語の幕開け)

法華経を信じていた、20代後半の教師の男がいた。男子校で「アルパカ」というあだ名をつけられて、

ホモソーシャルな空気の中で、兄貴分のように、生徒たちに慕われていた。

生徒に劇をやらせたり、フィールドワークをさせてみたり。一風変わった教師だった。

彼は法華経の教え(の、彼なりの解釈)に従い、終生妻帯しないつもりで禁欲をしていた。

聖人君子ではない。煩悩のある若い男が禁欲をするのだから、それなりに悩みがあった。

高校生の頃にあこがれた看護婦。教師になってから惚れた看護婦。妹の友人の小学校教師。

魅力的な女性に近づきたくなっては、物語を書いてみたり法華経を叫んでみたりして自制する。

夜に突然冷たい水で水垢離をはじめて、周囲に驚かれることもあった。

大正15年、彼は30歳になった。

その男は、教師をやめて自分の思想を伝える農業学校を作ろうと夢見て、

富豪であった実家が持っている空き家を借りて、小さなサロンを始めた。

農業学校の生徒を集めて化学や農業、芸術の講義をし、

生徒たちをあつめて小さな(そしてへたくそな)オーケストラを作り

農民芸術を実践すると称して、生徒たちと芝居の練習をしてみたりした。

法華経の教えを文学の力で伝えよ、という、法華経の団体「国柱会」のメンバーの教えに感化され、

教えを伝えるような子供向けの童話を作りたいと願っていた賢治は、毎週土曜日の夜に、地元の農民の子供を集めて

自作の童話を読み聞かせていた。

大正15年の秋。それを聞いた、近くに住む小学校教師高瀬露(25歳)がサロンの活動に加わるようになった。

サロンの整理整頓や、ちょっとした食べ物の準備、劇のヒロイン役を買って出て、

女学校出でオルガンも上手だったので、時にオーケストラのオルガン奏者として。

露は、サロンの仲間になっていった。

大正15年12月25日、元号が変わり昭和元年が訪れた。5日後には、昭和2年の元旦となった。

昭和2年の冬、賢治は(当時の)結婚適齢期をとうにすぎ、露もそろそろ嫁き遅れ。

周囲は「結婚してしまえばいいのに」と囃し立てた。

彼は、終生妻帯しないつもりだったのに。

生徒たちの軽口の結果か、昭和2年の夏、賢治は露に触れてしまう。


(昭和6年の物語の幕開け)

サロンの失敗から、数年たった、昭和6年のこと。

心身の療養として実家に軟禁され、パラサイトシングルをしていた彼に

東京で働く昔からの友人、菊池が、以前見合いした女性がまだ独り身だと告げる。

知人である画家の女性が近所に住んでおり、その女性が、ちゑと女学校時代からの友人で、情報を掴んだというのである。

一念発起した彼は、終生禁欲、終生妻帯しないという誓いをあっさりと棄てて

サラリーマンになり、東京にいる彼女を嫁にもらおうと一念発起する。

それと同時に、東京の文壇で、今までと違う作風で一旗揚げてやろうと、「大人の童話」の出版を企画する。

昭和6年七夕、学校を卒業し新聞記者になっていた元生徒、ソウに、春画絵師を紹介してもらう。

「おとなの女」を描くと決めて、人生でたったひとり、肌に触れた女――露を思い出す賢治。

描くのは、星座をモチーフにした大人の童話。2人の、縄に繋がれた女の話

―高慢な口がもとで椅子に縛られた悪女「カシオペア」と、いわれなき苦難に遭う聖なる乙女「アンドロメダ」

紹介してもらった春画モデル(娼婦)の誘惑に乗り、賢治は初めて女を抱く。

その女は「聖女」ちゑとよく似ていた。

そして、その女の背中にはカシオペア座のようなほくろがあった。

露の肌の感触を思い出す。女の肌はひとりひとり違うのだと、思う。

昭和6年8月。大人の童話の挿絵案は、一冊の本になるくらい厚くなっていた。

賢治は、自分が夢溢れていたころに書いていた童話「銀河鉄道の夜」をずっと捨てられずトランクに入れて持ち歩いたまま、

「大人の童話を書く」という名目のもと、享楽に溺れていった。そのとき、賢治を病魔が襲った。